
毛皮商品には、実は犬猫の毛皮が使われています。
以前から、毛皮のものを買わないようにしていたけれど
毛皮を買いません、と主張するリングを見つけたので
参加することにしました。
どうか、ブログやHPをお持ちの皆さんは
この毛皮NO!のリングに参加してください。
毛皮は本来、極寒の地に住む人々が
動物たちを食用とするために狩り、
その毛皮を自分たちの身を守るために加工したもの。
そうでない人々がおしゃれのために使うものでは
本来ないのです。
毛皮はそれを持つ動物たちの、たったひとつの
大切な身を守るもの。
人や物を飾るために使うものではないのです。
私たちはファーを買いません同盟はこちら
まいどです~ ^^
はい、そうですよね、、、
恥ずかしながら、猫と生活するようになってから
こういったおしゃれ用品に犬猫の毛皮が偽って
使われていると知ったんです、、
お肉、はい、食べますね。さほど好きでは
ないのですが、ブイヨンなんかにもエキスとして
入ってるし、ラーメンのお汁にも。
私たちの命は、そうしてつながっていってるんだなと
思うと、食べるときは感謝して、大切にって
思うようになりました。
革製品もそうですね。かばんや財布もそう。
合皮のものもあるけど、そこまで選定して
使ってるかどうかというと、実はあまり
無頓着だったりする。
そう、感謝しながら生きたいですね、
人間にうまれつくということの意味も
推し量り斟酌しながら生きていかなけれぱ。
nekomamaさま>
わああ、お久しぶりです ^^
そうですね、皆さん、気持ちは同じですよね。
突き詰めればそこまでいってしまう。
私ね、高校生の頃、魚も含めて肉類が全く
食べられなくなった時期がありました。
ラン友のオーストラリア人の子はずっとベジタリアンで
皆で鍋を囲むときは彼のいる鍋はベジ鍋に
してるぐらい。
ベジタリアンの人の心持ちも私はわかるし、
実際に全く食べられなく、受付られなくなるようすも
実は共感できるのです。
話しがまた迂遠になりました ^^;すみません。
あのサイトさんから見れる画像、
猫のところがどうしても見ることができません。
あのチャトラ柄のコート、、、
よい本の紹介もありがとうございます。
横浜の活動も存じております、猫雑誌にも
紹介されていましたものね。
地域猫活動の素晴らしいところは、やはり
猫のことを介して多くの人々がふれあい、
向き合い、真剣に考えていく機会ができ、
それが地域の発展につながっているということでは
ないでしょうか。
数々のご苦労があり、それを一言で言うには
あまりにも乱暴ではありますし、猫の食事の世話、
あとかたづけ、手術、里子に出す活動、
猫嫌いの人との折衝など、それはそれは多大な
ご苦労があるかと思うのですが、旗幟を明らかにし、
おのおのが起居を正すことで、、かかわった人々が深く思料し
その思いがちゃんと逓伝されていき・・・それこそが
地域の成熟に帰趨すると思うのですね。
最初のとっかかりは不幸な猫をなんとかしたい、とか
増えてこまった猫たちをどうしよう、とか
そういうあたりだと思うのですが、
その思いが人々を、いわば、接着剤のような
役目を果たしているように感じます。
以前から、他のサイトさんでもリアル・ファーにNoということの大切さを学ばせていただいてきましたが、またその思いを強くしました。
ちゃいくろさんがおっしゃるとおり、私もお肉もいただくし、皮革製品も購入します。
でも、そこに感謝の気持ちを絶対忘れないようにと。
だから、食事はお肉やお魚であれ、植物であれ、残しません。
そのかけがえのない命を私につないでくれた「命」たちへのせめてもの尊敬と感謝の気持ちと、私につないでくれた「人」たちへの感謝を忘れれはいけないと思うのです。
皮革製品も、大切に使えばそれに応えるように、長く長くそばにいてくれます。
でも、リアル・ファーは絶対に違う。
北の厳しい自然と共に生きる人々と、私たちが同じものを必要とするわけがありません。
手軽に手に入り、軽い気持ちで身につけるリアル・ファーのファッションアイテムがどういう経緯で自分の手元に届いたのかを、もっともっと多くの消費者が知らなければいけないと思います。
リアル・ファーである必要は、皆無です。
ラビット、フォックス、などと書かれたタグを見るたびに吐き気がします。
その毛皮が血まみれに見えるのです。
きれいごとを言うつもりはないけれど、動物とニンゲンの間にどれほどの違いがあれば、一方はたったひとつもって生まれた命をむごいやり方で踏みにじられ、一方は好き放題搾取してよいという図式が出来上がるのでしょうか。
フカヒレ漁などにも共通しますが、ニンゲンという、他の動物より上であると勘違いしている二本足の動物の意識の平均レベルって、食物連鎖のピラミッドとはまったく逆転しているように思えてなりません。
それが必要不可欠だった時代の猟や漁では、その命を与えてくれた動物や自然に対する感謝と尊敬の気持ちがあることは当たり前だったと思います。
それに、その命を手に入れるために、場合によっては自分だって命の危険を冒していたわけで、これは本当に必要に迫られたからこそのこと。
不要不急の、見栄や欲が先行するようになってから、ニンゲンは堕落したのだと思います。
えらそーにすみません。
ただ、りリアル・ファーはいりません、と一人ひとりが小さな声を上げ続けることでいつか、イギリスに追いつける国になってほしいと願ってやみません。
テーマはそれますが、いい機会なので本をご紹介させてくださいね。
ご存知の方も多いかと思いますが、
「捨て犬を救う街」 渡辺眞子/著 角川文庫
サンフランシスコで「殺さない」ことを目的とするシェルターが活動しています。
裏側には暗い現実も確かにあるのですけれど、その目指すところと、そのための努力は素晴らしいものがあります。
日本の保健所のあり方と比べると、雲泥の差なんていう言葉では表しきれない、こちら側のあり方に愕然としてうずくまりそうになりますが、まずは現実を知ること。
相手をうらやむだけではなく、どうすればそこを目指せるのかを、一人ひとりが考えること。
そこから一歩を踏み出して、いつかきっと「殺さない国」に。
私の地元横浜は、地域猫活動発祥の地でもあり、どうにか「殺さない」の発端を作れないものかと思っているのですが…
私たちの大切な家族であるわんずやにゃんずの仲間たちすべてが、安心して眠れるベッドとお腹いっぱいのご飯と清潔なお水が毎日あるという日々がいつか必ず訪れますように…!
日本で毛皮きたいって言う人の気持ちも解りませんし。
着なくても寒さで死んだりしませんから、ってずっと思ってきました。
でも、鶏、豚、羊、牛、ウマのお肉食べちゃいます。
ごめんね、残さず食べます、あなた方の命いただきますと感謝しながら。
ベジタリアンは動物殺さないからっていいますけど、植物も生きてるんです。おんなじなんです。
クジラやイルカは頭がいいから食べちゃダメ、でも牛やウマやぶたならいいよ、というのと変わりません。
命をいただくのは同じなんです。
革の靴やバッグも買ってしまいます。
お肉をいただき、その他の部分も余さずつかわせていただきます。
大事に使いますと感謝しながら。
何事もそうですが、命をいただくことで生かされてるわたしたちですから、せめて大事に使わせていただく事で、命を落とした動物や植物に感謝をしながら生活したいものです。
はじめまして、いらっしゃいませ ^^
そうですか、もう参加されてるのですね。
こういったことで毛皮産業が繁栄していること、
そういう仕事に従事する人がいる人、
日本では、江戸時代から続く問題などもはらんで
なかなか、リンクなどに参加できずにいました。
でも、買わないよって言うことはできる。
そう思って参加させてもらうことにしました。
子供の頃、航海士だった父に
極北の人々がかぶるような、毛皮の帽子がほしいと
言ったことがあります。
父は、「あれは必要だからかぶるもの。おまえには
必要ない」と言いました。
今ではそれもわかります。
マイナス何十度にもなる地で、あのふかふかの帽子は
頭部を守るためのもの。そして、過剰に生産しているものではない。
ちゃんと伝えていかなくてはなりませんね。
動物たちに与えられた、大切な大切な毛皮。
奪っていいはずはない。
殺すと得られるおしゃれなど、私たちには必要ありません。
考えだすと切りがないですね、
では、豚や牛、鶏はいいのか、ということになる。
でも、まずは、知ることからはじめなければ。
>といいつつ、残酷な写真や映像は見れてないダメダメ
な私です TT
boboさま、おっしゃるとおりです、
まず、日本人にはほとんど必要ありませんよね。
北海道出身の父ですら、毛皮はいらん!と言い放ちましたもの。
海外にずっと行っていた父は、何かを見てきたのかもしれません。
また聞いてみますね。
> 毛皮はそれを持つ動物たちの、たったひとつの
> 大切な身を守るもの。
> 人や物を飾るために使うものではないのです。
本当にその通りです。
この日本で「本当に」毛皮を必要とする人は幾人いるのでしょうか。
流行や虚栄心で身につけたその毛皮。
私にはそういう人達が、
「私はこの毛皮の裏に隠された意味を知りません/そんなことどーでもいいんです」
という低俗な人間にしか見えません。